2011年04月18日

「50年を超えたラブレター」 by 小佐野弾

弾の御祖母様に捧ぐ今日、母が着物を探すため、タンスを漁っていたら、とんでもないものが発見された。


それは、昭和28年春から昭和34年春にかけて、祖父から祖母へと届けられた膨大な数の手紙だった。

2001年に他界した祖父は、それはそれは波乱万丈な人生を歩んできた。

長兄である、「記憶にございません」で有名なあの方(僕の伯父だが…)が起こしたあのK社に弟として入社したものの、女遊びの激しさと、生活態度のひどさを咎められて、苛立ちを募らせていたのが昭和28年だった。祖父は、昭和3年生まれとしては異例なほど長身で(179cm)、スマートな体躯に甘いマスクで女性からはよくモテた。そして昭和28年の祖母への書簡には、「早くこの会社を飛び出して独り立ちしたい。一緒に、二人で頑張りましょう」とあった。

そして有言実行、会社を飛び出してしまい、兄からは勘当されてしまった。


そこからは、手探りでいろいろな会社を渡り歩いたが、その頃はまだ、祖母は茨城の実家に居て、祖母に対して金を無心する手紙が続く。

そして昭和29年、祖母が母を身ごもったことがわかると、超が付くほど真面目に働いた。そして母が生まれる数日前に、何とか入籍を果たす。しかし祖母の実家は関東でもかなり大きい寺院であり、曾祖父は大変厳しい人であったため、祖父の生活が安定するまでは、決して実家から祖母を出そうとは思わなかった。

だから、祖父が勘当を解かれて安定した生活を手に入れる昭和34年頃まで、祖父は茨城にいる祖母と幼い母のもとへ、手紙を出し続けたのである。


今日、祖父の手紙を発見して、それを読んで、母は「私はある種のショックを受けた」と言っていた。僕も同感だった。

だって生前の祖父は、どたらかと言えば植木等の「無責任男」に近い風体で、明るく、気さくで、でもテキトーで、とても筆まめには思えなかったし、文学など親しむような性格ではなかったから。照れ屋だったから、家族に対して直接的に愛情を伝えることもなかったし。もちろん、とてつもなく愛されていたのだけれど。

なのに、書面には、読んでいる方が恥ずかしくなるほどの、熱く、情熱的な祖父の想いが綴られていた。

祖父が他界して、6年がたって、今まで知らなかった祖父の一面を垣間見てしまったのだ。祖父が、まるで「俺だって、こんな時期があったんだぜ?」と今になって僕たちに教えてきたようで。なんという切なさだろう。何という感激だろう。言葉に言い尽くせない感情が、母と僕を覆ったのである。

祖母に対して、「早く二人で生活できるように頑張ることを誓う」と。母に対して、「あまり水を飲み過ぎて、おなかを壊さないように」と。

とても美しい文体と文字で、ただ只管家族に対する愛が綴られている。まぁ、金の無心に関する文も多かったけれど。

生前に一度だけ祖父が、「菊地寛はいいよなぁ。俺は、あいつの本だけは読んだ方がいいと思うな。ブルジョアがたくさん出てきてな、おもしれぇぞ」と言っていたことを思い出した。当時の僕は、「じいちゃんが本なんて似合わねぇ!!」って爆笑したけど、たしかに今日の手紙は、読書家の書く手紙だったのだ。


最近、祖母は加齢に応じて、老年期特有の症状が目立ってきた。「認知症」とまでは行かないかもしれないが、物忘れが激しく、感情がやや乏しくなり、心に輝きがなく、いつも家でぼーっとテレビを見ている。外には出たがらず、趣味もなく、友人もなく。そんな祖母を見ているのが、僕はここのところずっと辛かった。つい3年くらい前まで、あんなに奇麗で、元気で、ヨーロッパ旅行にも行っていた祖母が、どんどん衰えていく様を間近で見ているのが、とても辛かった。いくら人間の宿命とはいえども、老いとはなんと切ないものなのか、と。

しかし、今日、その手紙を祖母に見せたら、祖母は「青春時代」の顔を見せたのだ。自分でタンスにしまったことすら忘れてしまったラブレターが、次から次へと出てきて。50年以上、封印されていた祖父の祖母への愛情が、この2007年の秋に、祖母へと再び届いたのだ。著しい新鮮さを伴って。

祖父の浮気癖がひどくて、何度も包丁を持って追いかけまわした、と言っていた祖母。でも、祖父は、自分がもうこの世を去って6年も経つのに、こうして祖母に愛情を注ぎ続けるのだ。そしてその愛情を受けて、数年ぶりに光り輝く祖母の顔。

僕は、祖父の眠る仏壇に手を合わせながら、心からのお礼を言った。

照れ屋で、不器用な祖父らしいではないか! こうして、50年も経って、家族にラブレターを渡してくれるなんて! 自分がこの世を去って、6年以上も経ってから、愛の言葉を伝えてくれるなんて! 

今日一日だけかもしれないけれど、祖母は確実に新婚の頃の祖母となり、母は少女の頃の母となったのだ。僕は、そんなとてつもなく感動的な光景を間近で見られたことに、一種の奇跡を感じ、ただただ心がむず痒かった。


そんな中で、先ほど午前2時21分に、箱根町で震度5強の地震が起こった。僕の頭に真っ先に過ったのは、今、富士屋ホテルに滞在している友人の安否と、祖父が愛した富士屋ホテルの損壊状況のこと。

僕は立場上、今電話することが難しいので、友人に頼んで、富士屋ホテルに電話をしてもらい、滞在中の友人とホテルの無事を確認した。

以前、富士屋ホテルでボヤが発生した時、祖父は「建物はどうでもいいから、宿泊客の安全をすぐ確認しろ!」と指示していた。だから僕も、滞在している友人のことが心配で心配でたまらなかった。

滞在している友人には、せっかくの富士屋ホテルでの一夜が、地震に見舞われてしまい、心の底から申し訳なく思う。

しかし、「館内に被害はありませんでした」との報告に、心の底から胸をなでおろし、これも実は、祖父の仕業だったのかな、なんて思ったのである。

※この原稿は2007年10月に執筆されたものです。

by 台湾大管区長官 小佐野弾


・「オタクと博士」はコチラ
・「文部科学省に物申す」はコチラ
・「小佐野弾の時事放弾」完全版はコチラ
  

Posted by sangakubu at 22:01Comments(0)TrackBack(0)

2011年04月12日

「JALはいい」 by 小佐野弾

小佐野さんの守護霊はクラゲですWBS台湾,台北電:
さて、3カ月半ぶりに祖国に辿りつきました。

出発前は、色々と憂鬱だったけど、いざ祖国の土を踏むと、やはり笑みがこぼれる。

ヨウ素だのセシウムだのが多少混ざっていようと、やっぱり故郷の空気は旨いもんだ。

ただ、羽田空港から実家に向かうタクシーの中、牛丼チェーンやファミレス、コンビニまで消灯されていて、トンネルの中も暗く、とにかく街全体が真っ暗なのに驚いた。夕飯時なのに。

日本から来る友達や、ニュース等の情報から、なんとなく想像していたけれど、いざ目にすると、なんかとてつもない衝撃でした。


そんな中で、今日は非常に感激したことが。


台北松山空港〜羽田・東京国際空港に向かうJAL032便でのこと。

離陸後1時間ほどで、キャプテンからのグリーティングPAが。

「皆様、本日も数ある航空会社の中から日本航空をお選び頂き誠にありがとうございます」

から始まる、非常に誠実なPA。

そのキャプテンのPAの最後が泣かせる。

「なお、ご搭乗の台湾のお客様に申し上げます。この度の、東日本大震災につき、台湾の皆様からは、100億円を超える多大なるご支援を頂戴したとの事、伺っております。日本航空社員として、そして一人の日本国民として、ご搭乗中の台湾人のお客様に、心より御礼申し上げます。本当にありがとうございます。また、本日のご搭乗、重ねて御礼申し上げます」

こういう芸当ができるのが、まさしくナショナルフラッグキャリアたるJALである。

加えて、定時出発率世界一の航空会社であるJALは、今日のディパーチャーがわずか9分遅れたことに対しても、実に心のこもった謝罪があった。


さまざまなキャリアに乗るけれども、やはりJALは文句なしに素晴らしい。

4月1日より、再び「鶴丸」を背負った新生JAL。

かつて、世界中のありとあらゆる主要空港では、JALの「鶴丸」が見られた。

ホノルル国際空港にズラリと並ぶ「鶴丸」。香港啓徳空港にズラリと並んだ「鶴丸」。シンガポール・チャンギ空港に並んだ「鶴丸」。シャルル・ドゴール空港に美しくただずむ「鶴丸」の747-400。

さまざまな「鶴丸」に思い出があります。

最盛期には、テヘラン、ベイルート、アテネ、マドリッド、カイロ、アンカレッジ、アトランタ、ラスベガス、カラチ、ダッカ等の都市にも、「鶴丸」が並んだのです。

だって、PAN AMを越えて、世界一の旅客数を誇ったキャリアなんですから。

そんなJALの「鶴丸」の再生を期待したいです。

by 台湾大管区長官 小佐野弾


・「自由時報」に掲載された安西直紀の原稿はコチラ
・「オタクと博士」はコチラ
・「文部科学省に物申す」はコチラ
・「小佐野弾の時事放弾」完全版はコチラ
  
Posted by sangakubu at 16:55Comments(0)TrackBack(0)

2011年03月24日

「国力」 by 小佐野弾

小佐野さんの守護霊はクラゲですWBS台湾,台北電:

日頃、台湾人の日本に対する温かい心遣いに触れているが、知り合いじゃない人まで、みんな日本を気遣ってくれる。

今日は、台北市免許センター(監理所)に免許の書き換えに行ったんだけど、そこでも、カウンターの係のおばちゃんが、「日本人かい? あたしはね、日本が大好きだよ。行きたいねぇ…」と言うから。

だから、俺が「でも、今はみんな怖いって言ってるし、危ないよ」って言った。

そしたら、「何が怖いもんがあるかい! 日本は安全だし、いい所だよ。がんばりな!」と。


タクシーに乗っても、運転手のおっちゃんたちは、いつも必ず励ましてくれる。「家族は大丈夫か?」「いいかい、日本は世界一の国だよ。俺たちにとっちゃ日本は憧れさ。昔々からな。だから、お前さんの国は絶対に大丈夫さ!」…。

おそらく、今回寄せられた義捐金において、一人当たりの金額と、募金した人の割合という点では、明らかに台湾が世界1位であることは間違いない。

俺は、台湾に暮らす一人の日本人として、台湾という第二の祖国が寄せてくれた厚情の極みに対して、必ずや何らかの形で報いなければならない、と固く誓うのだ。

中華圏において初めて血を流さず民主化を成し遂げ、常に日本に寄り添い、同じ歴史を50年に渡って歩んだ、血肉を分けた兄弟こそ台湾である。最も偉大な戦友こそ台湾である。

この、東アジアと東南アジアの狭間に美しく且つ雄々しく佇む大切な友人を、偉大なる民主国家にして主権独立国家である台湾を、我が国の歴代政権は蔑ろにし続けたのである。1972年から凡そ40年に渡り、「存在せぬもの」と無視し続けたのである。

その「存在せぬ」はずの美しき島の友人たちから、100億円を超える義捐金が寄せられている「現実」を、我々日本人は決して「無きもの」にしてはならない。

日頃、「国力」という概念を意識せずに生きてきた大多数の日本人は、この悲惨な災害を通じて、初めて「国力」という概念に対するコンセンサスを、ぼんやりと抱いたのではなかろうか。

この悲劇の中で、四方の海の国々が、手を差し伸べている。

このような非常時にこそ、まさしく平時の「国力」が功をなす。

日本が積み重ねてきた外交努力ならびに政府開発援助・円借款も日本の「国力」の一端ではあるが、その国力の本質は、慎み深く、淡々と、我欲を抑え、真面目に日々の生活を営み続けた日本人の精神である。

台湾には、「日本精神」(台湾語で「リップンチェンシン」と言う)という言葉がある。

まさしく「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び」、如何様な苦難をも耐え抜く精神を、台湾人は「日本精神」と呼ぶ。

その「日本精神」の崇高なるを以て、即ち日本の「国力」なり、と吾人は看做すのである。

by 台湾大管区長官 小佐野弾


・「自由時報」に掲載された安西直紀の原稿はコチラ
・「オタクと博士」はコチラ
・「文部科学省に物申す」はコチラ
・「小佐野弾の時事放弾」完全版はコチラ
  
Posted by sangakubu at 09:06Comments(0)TrackBack(0)

2011年03月21日

「再び、日出へ」 by 小佐野弾

小佐野さんの守護霊はクラゲですWBS台湾,台北電:

日記を書く気が起きるわけもなく、数日。


祖国の姿を異国から見ていて、ショックのあまり、なんだか熱っぽい。


こんな時こそ、淡々と仕事をしようと思う。


明日は1泊で香港出張です。


当店では、お客様が商品を一つお買い上げ下さるごとに、NT$1ドルを義捐金として中華民国赤十字を通じて日本へ送る活動を本日よりスタートしました。


また、それとは別個で、少し纏まった額を義捐金として用意しました。


日本経済は、もはや大東亜戦争敗戦後からの復興の過程に等しい努力と気合が必要でありましょう。


しかし、当時と違い、少子高齢化が極限まで進行しつつある今日では、あのような輝かしい復興の道筋を再現することは難しい。

また、この度の原発事故で、エネルギー問題も著しく困難な局面に到達しました。


今の日本は、動力エネルギーと燃料エネルギーの危機へと陥った。


私は、原発に対して思想的な賛成も反対もありません。僕は社会科学者の端くれでありますが、やはり「科学者」である以上は、中立的でありたいと思います。

また今は、そうしたイデオロギー的な意見表明をするのは尚早ですし、そうするべきではありません。

こうした悲劇の中で、思想の左右に拘わらず、「反原発!」「朝鮮人は云々…」「反自衛隊」などと言うことが、とても適当とは思えず、そうした議論は復興への過程の中で大いになされるべきと考えます。

今は、ただひたすら、一人でも多くの命が救われることを祈るのみ。



ただ、こうした中で、敢えて冷静に日本の将来を思うに、客観的判断材料から見れば、暗澹たる結果しか思い浮かびません。


その是非はともかく、これを機に日本および世界の世論は一気に反原発へと傾くでしょう。原発の安全性自体に「絶対」はないことが証明され、反原発自体は結構なことであるが、しかし、代替エネルギーが見つかる見通しはありません。

風力発電は、洋上風力発電であれば日本にも可能性はありますし、最近は台風への耐性に優れた風車も開発されていますが、日本において一方向に安定した風が吹く立地は非常に限られており、風力だけではとても日本の電力需要を賄うには足りない。

火力発電は、著しい量のCO2を排出するため、これ以上増設するのは適当ではない。

すべての消費者主体と生産者主体にソーラーパネルを配るなら、そのコストは尋常ではない。

日本における原子力発電は、これを機に漸減していくものと考えられますが、しかし、現状の電力コストと効率を維持したままで、日本の電力需要を賄うには、今しばらく、我々は原子力発電所と共存していかなくてはならないのが現実でしょう。

ただ、それを世論が許さなければ、必然的に日本は更なるエネルギー危機へと突き進む。

今回の深刻な原発事故を以て、政権が原発全廃へと舵を切った場合、電力コストは著しい増加を免れ得ず、産業界は更なる壊滅的打撃を受けることにもなるでしょう。しかし、安全こそ第一と思えば、おそらく原発ルネサンスはもう二度とやってこない。

とにもかくにも、日本は未曽有の国難に直面している。


それでも僕は、日本の未来を信じます。

日本の復興を信じます。


僕は、大学の学部、大学院修士課程1年まで、18世紀スコットランド啓蒙期の経済思想、そしてとりわけアダム・スミスに始まる古典派経済学を研究し続けていました。


18世紀後半のイギリス。産業革命の前夜。当時のイギリスは、凄まじい危機に直面していた。

馬力・人力の非効率性という動力エネルギー危機。

そして極めつけは、グレート・ブリテン島全体の木々が刈り尽くされ、薪炭(薪)が徹底的に不足するという、燃料エネルギー危機であった。


そして、代替燃料として、石炭が用いられるに至った。

そのクライマックスは、故郷のイングランドでは徒弟制度の下、開業を許されず、路頭に迷っていたジェームズ・ワットに対して、スミスの母校であるスコットランドのグラスゴー大学が、実験室を提供したことであった。

そこで、徹底的に改良された、蒸気機関が生まれた。


結果、イギリスでは産業革命が勃興したのでありました。


イギリスにおける産業革命は、まさしく「危機」が生んだイノベーションの結晶でした。


僕は、この未曽有の悲劇的な大災害を乗り越えた崇高なる多くの日本人たちが、必ずや英知を結集し、日本に、否、世界に敷衍されるような、新たな産業革命をもたらすものと確信しています。

日本がかつてのような経済大国として君臨することは決して容易ではありませんが、かつて、いかなる困難にあっても、臥薪嘗胆に徹し、乗り越えてきた日本人は、第三次産業革命を携えて、必ずや再び日の出を迎えることでしょう。


我々、海外に暮らす日本人は、直接的支援が叶わぬゆえ、ひたすら間接的支援へ心血を注ごうと思います。

たとえ異国の地にあろうとも、僕はいつも、祖国を見て、祈っています。

by 台湾大管区長官 小佐野弾


・「自由時報」に掲載された安西直紀の原稿はコチラ
・「オタクと博士」はコチラ
・「文部科学省に物申す」はコチラ
・「小佐野弾の時事放弾」完全版はコチラ
  
Posted by sangakubu at 08:30Comments(0)TrackBack(0)

2010年09月30日

「本物の失言」 by 小佐野弾

大台に乗ったらしい小佐野さんの守護霊はクラゲですWBS台湾,台北電:
今回の尖閣諸島における領海侵犯・公務執行妨害事件は、台湾ではあまり大きな騒ぎになることもありませんでした。

学生時代から、「保釣協会」の幹部として反日活動に邁進していた馬英九さんが中華民国総統ですから、けっこう激しくやるのかと思ったら、交流協会(日本大使館に相当。ちなみにうちの会社のすぐ近く)の前で、ごく一部の外省人系の団体がデモやって、日の丸燃やして、周りの大多数の台湾人から、「うるせー」だの「バカじゃないの」と言われて白い目で見られていただけでした。

日本人って、やはり島国民族で海洋民族だからなのでしょうか。それとも戦後の教育のせいでしょうか。「領土」っていうものに対する意識が著しく低いよね。逆に、共産党なんかは日本の主権侵害に対してはかなり激しく批判するから、共産党が頼もしく見えるくらいですよ。


とはいえ、私はもう、我が愛する祖国に対する憂国の情は、尽き果てました。今回の件は、日中関係に新たな歴史を作りました。

最初に言っておきますが、俺は今回の「釈放」を批判するつもりはありません。おそらく、俺ば日本国の首脳であってもそうしたでしょうし。

ただ、「釈放の仕方」が下手だった。そして、とにかく中国側の思うツボに見事にハマったという点に、民主党外交の体たらくを見た。

民主党には「戦略」を知る人間が一人もいないことを見た。

日本は著しい「チャンス」を失ったし、政治的判断が遅れに遅れたせいで、日本の未来を支えるはずだった海洋資源を失う。イラクに匹敵するほどの埋蔵量を誇る油田とともにね。

もう、北海道はロシアに、竹島と対馬と隠岐は纏めて韓国に、沖縄は尖閣と沖ノ鳥島とセットで中国にくれてやればいいじゃん。


てか、戦後処理で、当初の予定通り、一度分割統治されちゃえばよかったんだよ、日本は。そうすれば、自分たちの祖国の土がいかに尊いものか、さすがに気付いたでしょうに。


俺が著しく恐れ戦いたのは、釈放ではなく、今般の事件に関する村田レンホー大臣のご発言である。

今回、レンホウ大臣が尖閣諸島は「領土問題」だとおっしゃっていました。そのあと撤回されていますが、「綸言汗のごとし」。

これで、名実共に、尖閣諸島問題は「領土問題」になってしまいました。

まぁ、民主党政権が登場した時に、こうなることは見えていましたから、もうどうでもいいです。

ただ、これほどまであからさまな外交的敗北を目にするとは思いませんでしたがね。

村田レンホウさんは、昨日はVogueの撮影を国会議事堂でなさっていたみたいですが、あの方の「領土問題」発言は、本当に本当に、「絶対に言ってはいけない一言」だったわけ。

麻生太郎の「みぞうゆう」だの森さんの「神の国」だのとは、まったくもって次元とレベルの違う、本当の意味での「失言」だったんだよ!

国益(つまり国民生活)に重大な影響を及ぼす、本当の「失言」。

麻生が難読症で漢字が読めないことや、森が「カミの国」と言ったことで、あなたの生活は変わっただろうか? 日本は領土を失っただろうか?

メディアリテラシーを持ち、冷静な頭脳を持った人間ならば、どちらが「失言」という言葉に相応しいかはわかるはずでしょう。

あの不勉強な一言で、日本は本当に、唯一の海洋資源と排他的経済水域を失うやもしれぬ危機的状況に至りました。

あの失言がなくて、そして日本が中国を相手にせずに、国内向けの外交パフォーマンスを駆使しつつも老獪な政治的判断で「上手に」釈放していたなら、今回の尖閣諸島問題は、中国に肩透かしを食らわせられたのだから。

全人代を前にして、アメリカとの関係悪化に手をこまねく中国の、「民衆ガス抜き」のための恒例の反日作戦を、失敗に追い込めたのに。

なのに、村田レンホーの失言と、政治的判断の遅れにより、事態は最悪の方へ推移する可能性が高いと思うのです。


中国は、近い将来、確実に尖閣の「奪還」を試みると思います。否、そうせざるを得ない状況を、日本が自ら作り出してしまったと言った方が正確でしょうか。


俺は熱烈な自民党支持者だと思われがちですが、まったくそんなことはありません。


ただ、天下国家を考えた時に、中長期的に政権運営ができ、日本の主権を「かろうじて」守ることが可能な政党が、あの段階で自由民主党しかなかったので、仕方なく自由民主党を支持したまでです。


外交は戦略です。利害です。騙し合いです。


安全保障と経済と政治と文化は、すべて「ひとつ」です。


綺麗事と単なる足し算引き算でカタがつくものではありません。


そして、そのことを解っている人は、民主党にはいません。そんなことは明白だったはずですがね。

小学校の学級委員長なら、清廉潔白な理想主義者でけっこうですが、国家運営はそれでは困ります。資源を持たぬ、否、海洋資源しか持たぬ日本が、国際社会の中での主要なプレーヤーとして生き残るために必要なのは、清廉潔白さでもクリーンな政治でもない。もちろん、官僚を倒すことでもない。

必要だったのは、老獪さだった。

ま、そんなことを今さら言っても遅いですし、日本国民は著しく高い支持を与えて現政権を誕生させたわけですから、その報いを受けるのも当然日本国民ですからね。


俺は、今までまったく民主党政権を支持してはいませんでしたが、まさかここまで危険極まりない政権だとは気付いていなかった。そんな自分の不見識を恥じます。



とはいえ、僕はもう、愛する日本の斜陽を台湾から眺めると決めています。せいぜい頑張ってお金を稼ぎます。



この日記を書いているまさに今、ニュース速報が入りました。

中国外交部(外務省)は、今回の尖閣事件について、「日本が船長を違法に拘束し、中国の主権を侵犯した。よって、謝罪と賠償を要求する」という声明を出したそうです。


この文脈の行間が意味するところはすなわち、すでに中華人民共和国は、尖閣の「奪還」を決定したということでしょうか。

すなわち、中国側では、もはや「領土問題」を超えたのです。日本のレンホウさんが「領土問題」にしてしまったが為に。

もう戻れません。日本国による尖閣諸島の実効統治は、近日中に終わりを告げる可能性が高まりました。


これが、民主党の外交の実力です。


「国が自分のために何をしてくれるのか」だけを考えて、「自分が国のために何ができるのか」を考えることできない日本人の末路が見えます。


あーあ、いっそのことアナーキストにでもなってみようかね。

by 小佐野弾
  
Posted by sangakubu at 06:32Comments(0)TrackBack(0)

2010年07月07日

「ダンのヒスイ、ゲットだぜ!」

おかもも親子の1000分の1先の海外遠征「〜新台湾遠征〜 あの日の戦友よ、もう一度」にて!

おかももワタルの父である岡本秀世氏の66年前の戦友を見つけると言う無茶無理無謀な作戦を、台湾大手新聞にスクープで取り上げられると言う形で見事に突破した我々大日本山岳部。

その絶対不可能と言われた行軍において、またしても重要な役割を果たした台湾大管区長官小佐野弾より「総帥、これは俺のお気に入りのヒスイです。これを総帥に差し上げますよ」と言いつつ、高級そうなトートバッグについた円形のヒスイを下さるじゃありませんか!

タカラプロ野球カードは無数に持つ私ですが、宝石は所持皆無!

私は、いい友を持った。

そして台北に拠点を置く小佐野弾より先日再度の連絡が!

「〜大日本山岳部新台湾遠征〜 あの日の戦友よ、もう一度 再会結実編」を開催しなければ、この夏は終われない(1月の遠征の最終日に戦友である劉さんの発見はできたが、対面はまだ実現していない)!

3度目の台湾遠征開催を画策いたします!  
Posted by sangakubu at 22:39Comments(0)TrackBack(0)

2010年02月07日

「”奇跡” 海角七号友情版」 by 小佐野弾

小佐野さんの守護霊はクラゲですこのたび、大日本山岳部の皆さんが台湾に来られて、一緒に李登輝総統に面会させて頂いたわけだが、実は今回の大日本山岳部台湾訪問の最大の目的は、メンバー岡本渉さんのお父さんである岡本秀世さん(80)の「戦友探し」であった。無論、岡本秀世さんご本人も、今回の台湾訪問に参加された。


昭和19年から中島飛行機(現富士重工)に動員され、大宮工場で働いていた岡本さんは、そこで日本統治下の台湾から来た学生たちと出会う。彼らは皆、台湾の高等師範学校に在籍する、極めて優秀な台湾人学生たちだった。

食糧不足で岡本少年が飢えている中、彼らは岡本少年に貴重な食べ物の数々を分けてくれた。ある日、飢えのあまり、息も絶え絶えになっていた岡本少年に対して、陳さんという台湾人学生が、「大丈夫!歌えば空腹なんか忘れられるよ! さぁ一緒に歌おう!」と言って、軍歌である「歩兵の歌」と「愛国行進曲」を歌って慰めてくれた。

そんな彼らはとても真面目で、いつもいつも一生懸命に勉強していた。そんな彼らの姿勢を見て、岡本少年は「僕も彼らのようにならなくてはならない」と強く思ったそうである。

また、当時18歳〜20歳の台湾人学生たちは、13歳の岡本少年を弟のように可愛がり、いつも一緒に遊んでくれた。岡本少年もまた、彼らを心から慕い、いつもいつも彼らの後を付いて行っていたのであった。


しかし、ついに昭和20年8月15日、玉音放送が流れ、大東亜戦争は終結した。

中島飛行機の大宮工場や周辺では、朝鮮半島から動員されていた朝鮮の人々が、「俺達は勝った!!!」と騒ぎ立て、岡本少年は彼らからの激しい罵倒と暴行を受けた。そんな朝鮮人の人々の豹変ぶりにショックを受け、心を痛めていた岡本少年に、台湾人の学生たちは言った。

「僕たちはどうやら台湾に帰らなくてはならないらしい。僕たちは今、とても悲しい。日本人として育ち、日本人として戦った僕たちの心は、やっばり日本人だよ。だから悲しいし、悔しい。僕たちは台湾に帰るけれど、僕たちはいつまでも日本が大好きだよ」

そして彼らは、涙を流しながら岡本少年と抱き合って別れを惜しんだのであった。


その日から65年。岡本さんはずっと、台湾人の「兄貴分」たちの優しさと温かさを、決して忘れることはなかった。そしてついに、台湾の土を踏んだのであった。彼らと、再会して「ありがとう」の一言を伝えるために。


このエピソードに心を打たれた僕は、さっそく友人・知人の新聞記者や雑誌記者たちに連絡を取り、協力を仰いだ。

そして昨日、帰国直前の岡本さんに対する取材が実現したのだ。

まず、この機会を実現させてくれた、僕の大親友である「聯合報」芸能部記者のジェシーと、政治部記者の王光慈さんに心から感謝申し上げたい。

「聯合報」は、台湾二位の大手新聞社であるが、国民党系のいわゆる「藍色陣営」を代表する新聞社であり、通常はこうした日本統治時代を肯定したり、大東亜戦争を美化するような記事を扱うことはほとんどない。

しかし今回彼女たちは、社の方針に背き、この国を超えた友情物語を見事に正確に記事にしてくれたのだ。

今朝の朝刊に掲載された記事は、ほぼ一ページを独占する大きな記事で、65年前の写真を持つ岡本さんの写真とともに、長々と上記のエピソードがつづられた。

記事のタイトルは「海角七号友情版…: 80歳の日本人のお爺さんが、66年前の兄貴たちを探す」というものだった。

しかし、台湾に数多いる旧帝国軍人の人々の中から、岡本さんの兄貴たちを探すのは難しいに決まっている。僕たちは、本当に「ダメ元」で取材をお願いしたのだった。



しかし。「奇跡」は起きた。


今日の朝刊が店頭に並んでから6時間。僕の元に、王記者から連絡が来た。

「小佐野さん! すごいわよ! 探していた戦友のうちの一人、三船敏郎似の、台北の劉さん(86歳)と思われる人から連絡が来たの!!!」


僕は、びっくりしてワナワナと震えてしまった。

そして、その劉さんに対して、明日王記者が再び取材に行くことになった。

劉さんは、台北の名門中学校で、長年化学と数学の教師をしていたらしい。そして今は、台北市内でひっそりと暮らしておられる。

もし、この方が本当に岡本さんの兄貴分である劉さんだったら。再び岡本さんに台湾へいらして頂き、再会が実現したならば。


僕にとって、これほどの喜びはない。


たしかに戦争とは、実に悲しいものである。戦争を知らぬ世代の我々には、想像することすらできない、過酷で悲惨なものこそが戦争であろう。

しかし、「戦争」を否定するあまりに、「戦争」の中でこそ起こりえた、こうしたひとつの人間同士の物語を埋もれさせてしまうのは、決してあってはならないことであろう。


大日本山岳部台湾大管区長官という、何やら仰々しい謎の肩書を頂いている僕は、今回はじめて、その肩書に相応する働きの一端を成し得たのではないか、と自負している。

by 小佐野弾
  
Posted by sangakubu at 03:10Comments(0)TrackBack(0)

2010年02月06日

「終生忘れ得ぬ日」 by 小佐野弾

小佐野さんの守護霊はクラゲです1月27日、ついに中華民國元総統・李登輝閣下にお会いした。

まず、この面会を実現させて下さり、且つ私に質問と発言の機会を与えて下さった大日本山岳部総帥安西直紀氏に心から感謝申し上げたい。

そして、不勉強な私に発言することを許して下さった、大日本山岳部メンバーの皆さんにも、心からの御礼を申し上げたい。

約6年間に及ぶ、私の台湾生活の中で、確実に一つのクライマックスと言うべき事件こそ、今般の李登輝総統に賜ったご引見の機会であった。共和制国家の国家元首にお会いするのはもちろん初めての経験であり、とりわけ私の第二の故郷である台湾中華民国の国家元首を長年に渡って務められた李登輝総統にお会いするというのは、私の人生にとっての大事件である。

以前、とあるパーティーで天皇皇后両陛下に拝謁する機会を賜った折は、まったく話すことができなかった。また、ホノルルにいたころは、当時のベンジャミン・カエタノ州知事に度々お会いする機会を頂いたが、やはり挨拶程度の会話が関の山であった。

しかし、今般の李登輝閣下との面会においては、私は閣下と直接「対話」する、という機会を与えられたのである。


淡水にある李登輝総統のオフィスにてお会いしたのだが、まず李登輝総統から大変貴重な講義を賜った。総統の目の前に座らせて頂いた小生は、李登輝総統の語られる台湾の歴史、「台湾経験」についての認識、台湾の近代化における日本統治時代の位置づけなどに関する大変興味深いお話を、まるで個人授業のような感覚で拝聴させて頂いた。

面会において、私が総統閣下に質問させて頂いた内容は、以下のようなものだ。

「台湾在住以前より、閣下のご著作などを拝読し、閣下の思想にふれて参りました。閣下は、マルクス主義や西田哲学、内村鑑三のキリスト教信仰、新渡戸の武士道、倉田百三の『出家とその弟子』など、一見対立するような数々の思想を摂取して来られたようにお見受けします。また、政治家としての閣下も、国民党主席の後、台湾団結連盟の精神的支柱となり、正名運動などを推進されて来られました。私は経済学の研究をしているため、閣下の京都大学時代の恩師である柏祐賢先生の『経済秩序個性論』からも強い影響を受けましたが、柏先生もまた、スミスとリストという全く相反する経済思想の統合を目指しておられました。閣下がマルクス主義の影響を受けつつも、博士論文においては近代経済学を応用した研究をされ、政治家としても国民党主席から国民党を批判する立場に転じられたのは、一見するとバラバラのようだが、やはりなんらかの筋が通っている。こうした行動や思想の変遷における閣下の"核"となっているお考えとは、どのようなものなのかをお教え頂けませんか」

私がこのような質問をさせて頂いたのは、以前も記した通り、右翼のアイドルではない、純粋な李登輝の姿に接したかったからだ。

そして、私はついに「経済学者李登輝」の姿に接することができた。


それまでとは打って変わって、中華民国総統としての表情は消え、私の質問の瞬間に、「農業経済学者李登輝」の姿に変わったのである。

この質問に対する閣下のお答えは約30分に渡る長大なもので、とても一度の記事に書きつくせるものではない。

ただ、閣下が、超優秀な経済学者であることだけは断言できる。

閣下がマルクス経済学に影響を受けたのは、その「資本」の概念が極めて正確であった点であった。

そして閣下がマルクス経済学を棄却した原因は、農業部門における余剰労働力すなわちSurplus labourの問題を、マルクス経済学では解消することができないことに気付いたためであった。

そこで、閣下はアイオワ州立大学時代に徹底的に統計学と計量経済学を学ばれ、実証主義研究へと傾倒していく。

そして、コーネル大学に提出した博士論文は、徹底した実証研究に基づいた、50年間にわたる台湾の農業経済史に関するものとなった。

この行を話される時、閣下は計量経済学の理論に対する深い造詣を披歴され、計量経済学が苦手な私は、本当に圧倒されてしまった。


そして、李登輝総統の行動の「核」とはすなわち、徹底した実証主義であることが自ずと明らかになった。閣下は総統時代、とにかく徹底してデータを見た。経済学者である閣下には、ありとあらゆるデータや官僚からの提案が、政策手段として有効に作用するか否かが「すぐにわかる」。そこで、その政策が右であろうが左であろうが藍であろうが緑であろうが、実証主義的観点から有効であると判断した場合は、とことん推し進めた。

つまり、李登輝という人物は、政治家である以前に、完全な「学者」であり「研究者」であったのである。

「学者」としての姿勢は、総統就任後も貫かれ、かつて人々から「老獪」と言われた行動や、「矛盾」と言われた政策もすべて、完璧な実証主義から導かれたものだったのだ。


一切のフィルターが除去された、「経済学者李登輝」の姿に接することができた私は、その感動に本当に「打ち震えた」のである。

そして、この会見は、「東アジアの奇跡」と呼ばれた台湾の経済発展史について、まさしくその「奇跡」を作り上げた張本人が語る、という二度とないであろう凄まじく貴重な機会にもなったのである。

無論、李登輝閣下が極めて魅力的な人物であり、一国の国家元首を務めた人間のオーラがハンパなかったのは言うまでもない。



李登輝総統との面会を終え、我々は新北投温泉にて、台湾の皆さんと懇親会を行った。



この場において私は、金門島名産「高粱酒」の連続攻撃を受け、完膚なきまでに打倒された。

私の精神の中に存在する理性もまた完膚なきまでに撃滅せられ、私は近年稀にみる大泥酔状態へと突入し、喚き、暴れ、絡み続けた挙句、尊敬する山岳部の仲間たちにあり得ないような暴言の数々を吐き続け、とある男子の会員には強制的な接吻を迫り、最終的には吐瀉物に塗れた状態で、友人金田君を中心とした方々に介抱され、タクシーに乗せて頂いたそうである。そのタクシーの中をも吐瀉物で汚染し、金田君に1000元以上のクリーニング代とタクシー代を負担させた挙句、靴も指輪もなくした状態で、家で倒れていたのであった。

私はこれらの地獄のような所業にかんする一切の記憶を失っており、本日メンバーの皆さんにお目に懸ったおりに、写真等でそれらの所業の一部始終が暴露せられ、その衝撃と自らに対する怒り、そして皆さまに対するあまりもの申し訳なささのため、皆さまに深く土下座をさせて頂いた次第である。

小佐野弾の昨日の所業は、まさしく万死に値するものであり、又吉イエスでなくとも「腹を切って死ぬべきである」と言われて然るべきものであった。


李登輝総統のご引見を賜るというこの誉高き善き日の最後に、あのような状態を作り出してしまったことを、深く深く恥じ、大日本山岳部メンバーの皆さまには、衷心より深く深くお詫び申し上げる次第である。

小生には腹を切る勇気もないが、今の私は、本当に腹を切ってお詫び申し上げたい心持である。

人生最高の瞬間と最低の瞬間が、一日のうちに訪れるという、本当に終生忘れえぬ日であった。

by 小佐野弾
  
Posted by sangakubu at 03:21Comments(0)TrackBack(0)

2010年02月05日

「白色恐怖/李登輝元総統への質問」 by 小佐野弾

小佐野さんの守護霊はクラゲですバクト、フィクサー、エネルギー「白色恐怖」とは、「白色テロ」、すなわち蒋介石国民党独裁政権時の台湾において展開された、言論封殺と台湾の本省人知識人に対する大粛清劇である。

特に、228事件が有名だ。


今月で、馬英九総統率いる国民党政権が誕生して1年。失策続きで、支持率が異常に下がっている馬政権だが、馬政権になって変わったこともある。

中国人観光客が増えたことと、盗聴が増えたこと、そしてアクセスできないウェブサイトが増えたことである。


最近、讀賣新聞や産経新聞など、民進党寄りの日本のメディアの台北支局が、盛んに盗聴されている旨が報じられたが、国民党は再び白色テロでもやろうっつーのかね。

そういえば、中華電信の「hi-net」で接続している我が家のインターネットも、急にアクセスできないサイトが増えたような気がする。

蒋経国、李登輝の時代を通じて民主化が実現し、中華圏で初めての選挙による政権交代までも成し遂げた偉大な民主国家台湾だが、再び国民党独裁時代の言論統制に戻るのだろうか。

俺は、1月27日に、かつて「民主先生」(Mr. Democracy)と呼ばれ、世界中の尊敬を集めた中華民国元総統李登輝閣下にお会いすることになっている。李登輝氏を衷心より尊敬してやまない俺は、李登輝氏の成し遂げた台湾の民主主義の後退だけは看過できん。

俺はかつて、国民党支持のとある友人と話していた折に、こんなことを言った。彼がしきりに李登輝批判を口にしていた中、「たしかに李登輝は既に古いのかもしれない。君が批判したい気持ちも尊重できる。ただ、我々がこうして、台北市内のど真ん中で、堂々と国民党を批判し、政府を批判し、天下国家について喧々諤々と語り合うことができるようになったのは、誰のお陰だろうか? それは紛れもなく李登輝の功績だ」と。彼は深くうなずき、納得してくれたことを思い出す。あれは、俺が台湾に来て、一か月と経っていなかった頃だ。

李登輝元総統には、聞きたいことがたくさんある。

経済学者としての李登輝に、政治家としての李登輝に、敬虔なクリスチャンとしての李登輝に、そして一人の元日本人としての李登輝に、聞きたいことがありすぎて困る。


とりわけ、李登輝元総統の京都大学時代の恩師であった柏祐賢博士の主著『経済秩序個性論』から、経済思想上かなり強い影響を受けた俺としては、李登輝元総統から見た柏博士の経済思想、とりわけ「スミスとリストの融合」という問題(ドイツにおけるアダム・スミス問題)についてのお考えを伺いたいし、経験なクリスチャンとしての李登輝元総統に対しては、内村鑑三から受けた影響についても聴きたい。

そして、李登輝元総統が愛読書として挙げたことのある倉田百三の『出家とその弟子』は、僕の愛読書でもあるのだが、クリスチャンである李登輝元総統が、『出家とその弟子』を読むことで、キリスト教の花(百合)と、仏教の華(蓮)の融合をどのように解釈したのかについても伺いたい。『出家とその弟子』は、親鸞を主人公としながら、まさしくキリスト教的な戯曲として成立しているのだから。

そして、時事的な問題としては、かつて李登輝元総統が「新台湾人」と呼んだ馬英九の政権のこれからと、李登輝元総統を精神的支柱と据えて成立した「台湾団結連盟」のこれからの動向について。


李登輝元総統には、14人でお会いするので、これらを全てお聞きすることはできない。なので、返事は期待しないながらも、お手紙をお渡し申し上げたいと考えている。

李登輝元総統は、日本のネトウヨや、小林よしのり『台湾論』だけを読んで台湾の全てを分った気になってしまったような、バランス感覚を欠いた頭の悪い右翼のアイドルになってしまっている。また、「李登輝元総統にお会いした」という台湾在住日本人もたくさんいるが、それらの人は皆概して、「アホな右翼」である。

李登輝氏が、中華民国総統・国家元首としての立場からした過去の言動や、きわめて冷静であり鳥瞰的な視点から述べた情勢分析などを全て自分たちの都合がいいように解釈し、「中立的な李登輝像」を見ようともしない馬鹿な右翼が多すぎる。

なるほど李登輝元総統にお会いするのは、実に貴重な機会である。しかし僕は、その機会が貴重であるからこそ、馬鹿な右翼のフィルターを通した金色に輝く李登輝ではなく、冷静な社会科学者としての、客家出身の老獪な政治家としての、純粋な信仰者としての李登輝の姿に接したいのだ。


欲を言えば、ゴルフが大好きで、特に俺の行きつけ「北投国華ゴルフクラブ」の常連としての李登輝元総統と、ゴルフ談議をしたりするのも夢ではあるが…。


それにしても、こんなに早く李登輝元総統にお会いすることができるのなら、台湾語を勉強しておけばよかった。俺は李登輝元総統が嫌う北京語しか話すことができない。無論、李登輝元総統は日本人よりも堪能な日本語をお話になるのでコミュニケーション上の問題はないのだが、一人の台湾を愛する在留邦人として、李登輝元総統との会話の第一声は、台湾語で話したかった…。

ただ、李登輝元総統も、子供たちと話す時や、中華民国総統の地位にあった時は、強い台湾訛りの流暢(?)な北京語で話しておられたのだが。

兎にも角にも、今回の会見は、僕の台湾生活の一つのハイライトでもある。悔いのない会見にしたい。

by 小佐野弾
  
Posted by sangakubu at 20:57Comments(0)TrackBack(0)

2008年12月26日

「尾崎豊」 by 小佐野弾

1兆円の先にあるもの複雑な彼〜フィクサー小佐野弾年末四連弾〜

WBS東京,世田谷電:
明日、修論予備審査なのだが、一通り準備も終わったので、YouTubeで尾崎豊の動画ばかりを見ていた。

俺は、中学時代も高校時代も、窓ガラスを壊して回らなかったし、喧嘩に明け暮れたわけでもないし、盗んだバイクで走りだしたり、ピンボールのハイスコアーを競い合ったこともない。そもそも、俺の時代にはピンポールはもうなかった。中学の頃はせいぜい、「校舎の裏」で「覚えたてのタバコをふかし」、夜の公園で友達と酒飲んでたくらいだった。学校はサボってばっかりだったが。


それでも、尾崎豊が心に響くのはなぜだろう。


あの、「卒業」や「15の夜」は、ああいう学園生活を送ってこなかった人たちにも、心に響くものだと思う。あれは、別に不良の心を代弁しているのではなくて、思春期の多感でムズムズするガキの心のすべてを代弁しているからなのだろう。

YouTubeの「卒業」の画像のコメント欄に、「批判を承知で言おう。気味の悪い歌だ。なぜ窓ガラスを割る? なぜバイクを盗まなくちゃならない? 何が自由だ。自由がなんなのかもわからんガキの歌だ。秩序を乱す…云々」とあった。

かなり保守的な思想の持主のようだが、むしろこの歌のおかげで窓ガラスを壊さずに済んだヤツの方が多いんじゃないか、と俺は思う。

自分が何者なのかさえわからない。社会秩序の中で、自分の位置づけすらも理解ができない。15歳なんて年齢はそんなものだ。だから、バイクも盗みたくなるし、タバコも吸いたくなるし、喧嘩もしたくなるし、窓ガラスも割りたくなる。社会の中で、どんな方法でもいいから「自分」を、「俺」を、示そうとする。これが、論理的に、社会秩序を乱す悪行だなんてことは、どんな不良もわかってる。

だからこそ、やるんだから。

「自由」の意味がわかれば、誰も窓ガラスなんか割らないし、バイクを盗んだりしない。でも、わからないから、あがいているわけだ。こういうのはすべて、衝動であって、論理的にいいか悪いかなんてどーでもいいわけ。

むしろ、「尾崎豊」を知らない世代が中高生となった今日、中高生は心の中のウズウズを解消できずに、人を殺すし、親を殺すし、自分を殺すようになった。そっちの方がよほど深刻な気がする。

俺に近い大多数の皆さんがご存知の通り、中高生の頃の俺は、自分についてそうとう悩んでいた。もちろん、今でも悩むし、未だに「自由」がなんなのかなんてさっぱりわかんない。なぜ、自分が常に少数派になってしまうのか。なぜ神様は、「俺だけ」をこんな風に作ったんだろう。なせマイノリティーになってしまったんだろう…云々。そして、親に対する罪悪感。そして、勝手に被害妄想の世界を作って、これは全部「俺だけ」に与えられた試練なのだ…と憐れんでいた。

成績も悪かったし、いつも留年の危機だったし。常に「バカ」だと思われてたし。いや、事実バカだったんだけどね。でもどこかで、「俺は違うはず!」と思っていたり。あーあ、本当に青かったなぁ…。

どうすれば、この「自分自身」を「卒業」できるんだろう?とね。まったく、青臭いガキだった。

そんな中で、尾崎豊の歌に出会った。もう彼はとっくに故人となっていたけれど。

それまでは、ただ単にシャブ中で死んだニィチャンという認識しかなかった尾崎豊の歌は、服装と髪型と喫煙以外、特に素行に問題がなかったはずの俺の心にずしりと来た。そして、「このテの悩み」は、質こそ違えど、誰もが通る通過儀礼なのだ、と認識することができるようになった。

学校と家庭で無難な生活を送りつつ、私生活でかなり乱れていた当時の俺は(そして今でも)、実はとっても素直なガキだったので、それを受け容れ、かなり自分を認められるようになったと思う。

当時の俺は、上記のコメントを書いた人と同じで、窓ガラスを壊すなんてアホだと思ってたし、バイク盗むくらいならバイトして金貯めて買えばいーじゃん、と思っていた。自分のことを棚に上げて、人間は社会の中で秩序正しく生きるべき、とどこかで思っていた。

でも、きっと俺は、本当は窓ガラスを壊したかったし、バイクを盗みたかったし、喧嘩をしたかったんだと思う。もちろん、俺なんかヨワっちぃから、もしマジで喧嘩してたら普通に病院送りで生命の危機だったと思うけどね。運動神経悪いから、普通に顔面に食らってアウトだろう。

でも、俺の代わりに、尾崎豊が喧嘩してくれて、バイクを盗んでくれて、窓ガラスをぶっ叩き割ってくれたから、俺は何もしないですんだ。ただ、カラオケで尾崎の歌を歌っていれば、自分も窓ガラスぶっ壊している気分になれたから。


こういう歌がなくなって、みんなが「清く、正しく、美しく」なっていってしまって、そしてフタを開けてみたらガキが人殺しになっていた。


以前、「ごくせん」について、「不良とヤクザを正当化していて問題だ」とどこかの誰かが噛みついていたけれど、そこまで社会が清く正しく美しくなってしまったら、それこそ思春期には付きものの、あのモヤモヤやウズウズが、いったいどんな形で発散されるのだろう。

それを考えると末恐ろしい。


経済学をやっていると、「自由」と「秩序」が、いかにアホらしい理想論であり、制度や政策が、如何に無力かを思い知ることが多い。

もちろん、それを承知で研究しているし、無力だからこそ、研究しているわけで。少しでも社会に貢献できるように。

でも、尾崎豊のような世界観は、この世の中にとって、絶対に必要だなぁ、と漠然と思った。


超保守主義者だった俺は、やはり明らかにリベラル化してるな(笑)



いやぁ、最高に恥ずかしい文章だ。でも、まぁ思いついちゃったんだからしょうがない。このまま載せることとします。

by 小佐野弾


・「オタクと博士」はコチラ
・「文部科学省に物申す」はコチラ
  
Posted by sangakubu at 23:12Comments(0)TrackBack(0)

2008年12月25日

「フィクサー」 by 小佐野弾

すいません、「東京アンダーワールド」に出てませんでした?〜フィクサー小佐野弾年末四連弾〜

WBS東京,世田谷電:
今日、10月27日は、日本のフィクサーと呼ばれ、日本の黒幕と呼ばれ、社会から忌み嫌われ、日本赤軍の処刑者リストの筆頭に載せられ、誰かさんの刎頚の友と呼ばれた、我が偉大なる叔父の22回目の命日である。


山梨の、畑すら持てない水飲み百姓の長男として生まれ、極貧生活の中で、とてつもないハングリー精神を養い、死ぬほど働く中で先見性を身に着け、時の権力にカネをばら撒きながら、裏社会と表社会を牛耳った男。

つるつるの禿げ頭に鋭い眼光。ハマコーがカジノでスッた時に3億あげただの、"角さん"の総裁選資金に25億をやっただの、総資産3兆円だの、真偽はともかくとして、その逸話は尽きない。そして同時に、社会におけるイメージは、とてつもなく、悪い。暴露本やら、小説やら、色々な著作が編まれているが、その中でもとりわけ面白いのは、日本共産党赤旗特捜班が書いた、『日本の黒幕・小佐野賢治』(上下巻)シリーズがスゴい。

うちの叔父があそこまで登りつめ、日本の国土で"角さん"と、ダイナミックな「リアル・シムシティ2000」をやってのけたのは、やはりハングリー精神があったからだと思う。だから、何万年経っても、俺は叔父には追い付けまい。

「巨悪」なイメージが付き纏う叔父だが、俺は、「巨悪」と共にそこには「巨善」があったと思う。

小さい頃の記憶だが、子供がいない叔父は、とにかく俺たち兄弟をかわいがってくれた。あの禿げ頭が面白くて、目の前にある叔父の家に遊びに行っては、あの禿げ頭をバチバチぶっ叩きながらゲラゲラ笑っていた俺。そんな俺に嫌な顔一つせず、いつも一緒に遊んでくれた叔父。当時は、ロッキード事件の控訴審の最中で、一番忙しかったころけだけど、そんな中で、かくれんぼしたり、鬼ごっこをしたりしてくれた。

今でもよく覚えているのは、叔父が叔父の家で、うちのじーさんや某大臣と花札をやっているのに出くわした時。

俺は、花札も見たことなかったし、聖徳太子や諭吉先生が印刷された紙が大量に飛び交う意味もイマイチわかっていなかったので、「おじちゃん、何してるの?」と無邪気に聞いた。

そしたら、叔父は少し恥ずかしそうな顔をして、甲高い声で、「日本のトランプだよ、トランプ!」と言ってけらけら笑っていた。

叔父は、とりわけ身体障害者に優しかった。取引先の社長さんの息子さんが、重度の脳性マヒを患っていたのだが、叔父は誰よりもその子をかわいがって、いつも傍に連れていた。出張で海外に行く時は、必ずその子も連れて行った。

仕事の面でも、短期的には絶対にペイできないようなホテル建設やバス路線敷設でも、地元から頼まれれば赤字覚悟でガンガン進めた。

確かに悪いこともしたんだろうけど、その分いいこともたくさんしたのだと思う。とにかく、「巨善」と「巨悪」の両面を併せ持った、スケールのデカい男だったのだと思う。

今の俺の生活があるのも、こうして何不自由なく暮らせているのも、元を正せば、すべて叔父のおかげだ。だから、一生尊敬し続けるし、一生感謝し続ける。

俺にとっては、最高にかっこいい人生を送った人だし、太く短く生きた男の代表だと思っているから。

叔父は記憶をなくすのが得意だったけれど、俺にとっての叔父の記憶は絶対になくならない。







ちなみに、10月27日は、10年という短い結婚生活だったけれど、うちの母親とオヤジの結婚記念日だったりもするらしい。

by 小佐野弾


・「国際興業」公式サイトはコチラ
・「オタクと博士」はコチラ
・「文部科学省に物申す」はコチラ
  
Posted by sangakubu at 22:03Comments(0)TrackBack(0)

「中毒」 by 小佐野弾

1兆円の先にあるもの〜フィクサー小佐野弾年末四連弾〜

WBS東京,世田谷電:

最近、マイ・ブームがある。

それは、いまさらながら、ずばりパイナップルケーキだ。

しかも、とあるブランドのパイナップルケーキ限定である。

パイナップルケーキとは「鳳梨酥」(ふぉんりーすー)と呼ばれ、台湾旅行のお土産品の中では、「からすみ」、「烏龍茶」を抜いて、長年にわたり堂々一位に君臨し続けている、台湾を代表する菓子である。

日記を読んでいる皆様方の中にも、台湾旅行帰りのご友人や、台湾人のお友達から、パイナップルケーキを貰ったこともあるのでは?

しかし。このパイナップルケーキは、超定番のお土産であり、台湾烏龍茶との相性もバツグンであり、濃厚なパイナップル餡とサクサクの生地とのコンビネーションは中々秀逸なのではあるが、何故か人によって好き嫌いが激しい。

どちらかと言えば、日本人には嫌われている。俺も何度かお土産として、日本に買って行ったことがあるが、目の前で食った人の大体の反応は、「え・・・(絶句)」であり、とある後輩は、「げっ、超マズいっす!」とのたもうた。

俺も、元来はこのお菓子がそんなに好きではなかった。ただ、烏龍茶との相性という点では、このお菓子の右に出るものは存在しない。だから、お茶をゆっくりと嗜みたい時は、必ずパイナップルケーキを食べていた。そして、台湾の様々なブランドのパイナップルケーキを食べてきたのだと思う。

今までは、「まっぷるマガジン」投票でも一位を獲得した、知り合いのお茶屋さんである「廣方園」さんが作っている、大判のパイナップルケーキが一番ウマいと思っていた。それですら、「まー、ウマいかな」程度だったので、それ以上にウマいパイナップルケーキが、台湾に存在するとは思っていなかった。

しかし!! 俺は2か月前、ついに出会ってしまった。史上最強にウマい、奇跡の味に。


kobannmitaiそれは。高雄にある創業118年の老舗、「舊振南餅店」(Jiu Zhen Nan)のパイナップルケーキである!!

「舊振南」は、台北のそごうの地下食にも出店しており、台北でも購入することができるのだが…。二か月前、そごうの総経理と一緒にそごうの地下食を歩いている時、総経理が、「コレ、うまいんやで」と「舊振南」の前で立ち止まった。そして、試食コーナーにパイナップルケーキの欠片があったので、ひとつ試食してみると…。

「!!!!!!これはっっっっっ!!!!!!!」

山岡四郎もびっくりの味である。

台湾のパイナップルケーキというのは、大概は、バターを使わない、かなり乾いたクッキー生地のような、ボソボソした感じで、その中にかなり粘度の高いパイナップル餡が入っているのが常だ。

ところが、「舊振南」のものは、まったく違う。ふんだんに高級バターが使われ、芳醇な香りを放つ。それはまるで、フランスの最高級チーズとバターで作られた、リッチなチーズケーキのような香りがするのだ。

そして、生地は実にしっとりとしており、口に入れた瞬間、トロリと溶解してゆくような感覚である。さらには、餡が固まって中心に詰まっているのではなく、実にさらりとした、台湾パイナップル独特の風味を持つ餡が、しっとりとしたクッキー生地の中にうまく混ざり、本当にパラダイスのような味を奏でるのだ。

俺は、その瞬間、12個入りを2箱買い、家に持ち帰り、なんと二日で食べきってしまった。

それ以来、「舊振南」のパイナップルケーキの「中毒」である。まるでタバコのように、止めることができない。

買いだめしておかないと、不安になるくらい、「舊振南」のパイナップルケーキに依存中だ。

もはや、「舊振南」以外のパイナップルケーキは、口にすることができない。

俺は、「舊振南」の味を知ってしまって、もはや不幸とも言えるのかもしれない。だって、もうこの味に一生束縛されてしまうと思うからだ。

かくいう俺は、また一個、口に運ぼうとしている。

確実に太るが、それでもいい!と思えるほどの味に出会ったのだ。


今度、この美味しすぎて不幸になるパイナップルケーキを食ってみたい方は、御一報ください。買って帰ります。中毒、確実です。

by 小佐野弾


・「舊振南餅店」公式サイトはコチラ
・「オタクと博士」はコチラ
・「文部科学省に物申す」はコチラ
  
Posted by sangakubu at 18:44Comments(3)TrackBack(0)

2008年09月08日

「文部科学省に物申す」 by 小佐野弾

物申すよ、ホント1兆円の先にあるものWBS東京,世田谷電:

先日、「オタクと博士」という記事を書いた。

日本には博士学位取得方法が2つあって、大学院後期博士課程に3年間在籍し、在学中に学会発表および査読つき専門学術誌に論文が2〜3本掲載された上で、課程修了時に博士論文を提出し、論文審査と口頭試問に合格して博士号が授与される制度を「課程博士」という。これは今日においてもっとも一般的な博士学位取得の方法である。

一方で、諸外国においては見られない、日本独自のユニークな制度が「論文博士」である。通称、「ロンパク」と呼ばれる。論文博士は、特定の分野において、博士課程修了と同程度の学識を持っていると判断された人が、いずれかの大学に博士論文を提出すれば博士学位が取得できる制度である。つまり、「論文博士」という制度を用いて博士学位を取得する場合、極論で言えば大学院はおろか、大学・高校・中学校すら卒業している必要はない。

つまり、何らかの分野を極めた、究極的な「オタク」が博士になれる!というとても夢のある制度なのである。

そして、戦前の日本は、この「論文博士」が唯一の博士号取得方法であり、「帝大卒でなければ官僚にはなれぬが、努力を極めれば博士になれる」という日本の伝統こそが、近代日本の高等な学術を支えてきたのである。

しかし、文部科学省中教審大学院部会は、2005年9月の答申で、この「論文博士」という制度を「廃止の方向で検討していく」と明記した。文部科学省中教審のサイトをチェックしたところ、その後議論は進んでいる様子はなく、どうやらまだ論文博士制度は虫の息で存続しているらしい。

理由としては、「我が国独特の制度であり、学位の国際的水準が保てないおそれがある」のと「大学院課程進学の促進」、そして「円滑な博士学位授与」、更には「博士学位所持者の極端な専門化を避ける」ためなのだそうだ。

琥珀エビスはビールの芸術品ですまったく何を考えているのだ、文科省。

「論文博士」制度が「我が国独特の制度」であって、如何なる問題があるというのか。そもそも、後期博士課程3年間を終えたら、自動的に博士号をポンポン出すような大学院教育こそ、「学位の国際的水準」を保てなくなるに決まっている。

そして、「大学院課程進学の促進」は高度な職業人育成のためには良い作用をもたらすであろうが、博士課程にどんどん人を送りこんで、博士を量産したとしたら、現在でも深刻なオーバードクター問題の更なる深刻化を招くだけだ。民間企業は限りなく博士号取得者を嫌う。「専門バカ」だと思われるし、「プライド高そう」と思われがちだからだ。なのに、更に博士を増やして、しかも博士学位取得を容易化するとは、明らかにおかしい。

日本の大学の国際競争力強化のためには、大学院生の数は増やすべきだが、日本の学問が今日まで高く評価されてきたのは、博士学位取得が極めて難関であったからでもある。そもそも、博士学位というのは「円滑に」授与されるべきものなのだろうか? 俺自身、博士学位取得を目指す者として、たしかに博士学位が円滑に授与されるのはありがたいが、長期的に考えてみれば、日本の学問の水準はどんどん落ちていく。

俺は個人的に、「博士」っていう響きには、資格としての価値以上の何か特別なものを感じていて、だからこそ博士学位保有者の身のこなし方や生き方も独特の自律性を持っていると思っていた。しかし、文科省は博士を単なる資格にしたいらしい。

人は見た目じゃないたしかに国際的には博士学位は完全に資格化している。資格としての博士学位も確かに重要だ。けれども、日本にはずっと論文博士という伝統があったのだから、そこは足掻いてみてもいいではないか。日本においては、「博士」という響きに資格以上の何かを付加してもいいのではないだろうか。

「日本は、論文博士制度のおかげで博士号の敷居が高く、なかなか出ない。だから留学先として外国人から人気がない」と言われる。だから、日本の大学院は近年、留学生に対しては学位授与を容易化する。

しかし、そんな人気取りのために学位制度が崩壊してはならない。むしろ、何らかの事情があって高等教育を受けられなかった外国人にとっては、「日本に行けば論文博士制度があるから博士になれるかも!」というのを積極的にアピールすればいいじゃないか。

ひたすら何かに打ち込んで、何かにこだわって、黙々と研究を続けた人が、博士学位相当の業績を残しても、「あんた博士課程行ってないからダメ」と切り捨てられるのは、あまりにも日本の今までの学術的伝統とかい離している。

今は眠くてあまり理路整然としたことは書けないが、とにかく俺は激しく抗議するぞ、文科省。

ちなみに、2005年9月当時の中教審会長は、慶應義塾の前塾長、鳥居泰彦先生であり、なんと安西塾長も名を連ねていた。

塾長、俺、塾監局に抗議しに行ってもいいですか?

by 小佐野弾


聞き入ってますよ※「小佐野弾のロンパク廃止論絶対阻止宣言!」は本日が最終夜です。論文博士制度、道のりは決して楽ではないもののオタクが博士の称号を手にすることが出来得る非常に夢がある制度ではないでしょうか。小佐野弾が前号今号で叫んでいたように、この制度が今、姿を消す可能性が出てきております。しかし、廃止が叫ばれる今だからこそ、パソコンの前にいる他ヲ圧倒するオタクよ、潜在的博士よ、今こそ立ち上がれ!

「小佐野弾のロンパク廃止論絶対阻止宣言!」の再登場にご期待ください。


・「論文博士」についてもっと詳しく知りたい方はコチラ
・「文部科学省」公式サイトはコチラ
・前号「オタクと博士」はコチラ
・今号予告編「まさか!ジェンキンスさんがパワプロ登場バイーン」はコチラ
  
Posted by sangakubu at 18:59Comments(1)TrackBack(0)

2008年09月07日

「オタクと博士」 by 小佐野弾

ダルマリズム1兆円の先にあるものWBS東京,世田谷電:

さて、最近思っていること。

「オタクと博士はどこが違うの?」

博士って言うと、「末は博士か大臣か」とかつて言われていたほどの誉高き学位であり、資格でもある。博士学位を取得すると(昔風に言えば、博士号を取ると)、銀行やクレジットカードの名前が「Dr.XXX」になり、飛行機のチケットもドクターになったりする。んで、名刺には「博士」と書ける。

まぁ、やはりかっこいいことこの上ない。

一方、オタクって言うと、近年では「ヲタ」等と呼ばれてしまい、かなりアキバなマイナスイメージもまとわりついたりする。「彼は鉄道オタクだから」っていう響きと「彼は鉄道博士だからねー!」っていう響きはかなり違うと思いませんか?

では、一体オタクと博士はそんなに違うものなのか? 

俺の周りにいる博士の皆さんや、博士課程在学中の皆さんを拝察申し上げるに、大体みんなオタクである。MBAとかロースクールを除けば、学術大学院にいる段階でもかなりオタクだ。斯く言う俺も、もちろん「オタク」である。

俺は「飛行機オタク」であり、「乗り物オタク」であり、「経済学オタク」である。

何かを崇高なレベルにまで高めて修めよう!という点では、オタクも博士も同じだ。正規の高等教育を修了し、博士論文を書いた、というだけで「博士」と呼ばれ、そうでない者は「オタク」であるのだろうか?

たとえば「さかなクン」。彼の魚類に関する凄まじい知識は、「本気になれば博士学位が取れる」と言われて久しい。事実、彼は某海洋大学の客員教授も務めている。しかし、彼は大卒ではないので、博士学位は勿論のこと、学士学位も有してはいない。しかし、彼の知識は明らかに、そこらへんの海洋生物学を学んだ学士や修士のレベルを凌駕している!

彼はもはや、単なる「さかな好き」や「さかなオタク」に留まらないはずだ。別に学位を取ったからエライなんてことはまったくないのだが、俺は彼には是非、学位を取ってほしいと願っている。

オタクは「知識」だけで、それをネタに論を組みたてて論文を書くことはできない、なんて言われたりするが、そんなことはないと思う。「説明論文」や「観察論文」なんてものもあるし、論文執筆の作法さえ知れば、かなり多くのオタクの人々が論考を組み立てることができるはずだ。

日本には、ユニークなシステムがあって、それが「論文博士」という制度である。

博士学位には二種類あって、「課程博士」と「論文博士」があるのだ。

課程博士というのは、修士課程(博士前期課程)の2年間と博士後期課程課程3年間の課程を修了し、博士後期課程修了時に博士論文を執筆する。その論文が、査読制度のある学術雑誌などの刊行物に掲載されるか、出版されるかして、学位審査委員5人が「博士学位相当」と認め、口頭試問に合格すれば、博士学位が授与される。そしてその日から晴れて博士となる。これが今日においてもっとも一般的な博士学位取得方法である。

ザッツ文化人一方、「論文博士」は近年の諸外国においては消えうせてしまった制度であるが、とても夢がある。

「論文博士」取得のためには、大学どころか、高校・中学すら出ている必要はない。戦前の日本には、この「論文博士」が多かった。というか「論文博士」が唯一の博士号取得方法だったからだ。

つまり、自分が究極的に拘っている「何か」について、とことん学術的に追及し、研究する。そしてそれを学位論文として、どこか適当な大学に提出し、「博士学位相当」と認められれば、口頭試問を経て博士学位が取得できるのだ。

昔は、文学や考古学の分野において、論文博士はたくさんいたのだ。

たとえば考古学なんかだと、とにかく化石発掘や遺跡巡りが趣味で、貝塚を掘ったりしていた中卒のおじさんが、自分の今までの発掘調査の記録を本にしよう!と思い立ち、本を書いた。本自体は全然売れなかったけど、とある友人が「これはすごい!」といい、大学に提出することを勧めた。おじさんは悩んだけれど、恥ずかしがりつつその本を大学に学位論文として提出した。提出された大学の教授たちは、そのおじさんの長年にわたる発掘活動と調査活動を、「博士学位相当」と認め、そのおじさんに博士号を授与した。なんてことがけっこうあったわけである。

今、この論文博士という制度が日本から消えようとしている。

文部科学省が、諸外国の傾向に合わせて、日本から「論文博士」の伝統を消そうとしているのだ。

俺はこれに真っ向から反対したい。

日本の高等な学問は、この「論文博士」という制度によって支えられてきた一面もあるからだ。大学を出ていないと「絶対に博士になれない」なんて時代になってしまったら、経済的事情から大学に通えない人や、その他諸々大学に通っていない人々が「博士になる」という可能性を奪ってしまうことになる。

昔のエラい学者の方々は、かなりの数が「論文博士」だった。3年間の博士課程を修了して、論文一本書いて博士号という現代とは違って、みんな本物の「プロ」だった。いや、もう究極的オタクだったのだ。30年以上、ずっとずっと打ち込んできて突き詰めてきた何かが認められて博士になった博士の人々の業績は、課程博士とはまったく次元の違う重みがある。それが明治以降の日本の学問的土壌を支えてきたのだ。

「帝大卒じゃないと官僚にはなれない。しかし努力さえすれば博士になれる」というのは実に夢があると思うし、それが学問の中心にあるべきだとも思う。究極的こだわりが結実して博士になる、ってスゴいじゃないですか。僕は日本にはこういう夢のある国であってほしいと思う。

つまり、日本は元来「オタク」の延長線上に「博士」を位置づけてきた伝統があるのだ。

たとえ学校を出ていなくても、究めた「オタク」は即ち「博士」である。これが日本の学術の伝統である。


しかも現代においては、社会学や社会史、あるいは総合政策分野など、かつては「学問」とは呼ばれなかった学際的分野が「学問」として認められている。つまり、あらゆる分野の「オタク」や「プロ」が、「博士」になる可能性を秘めているのだ。

日本の「潜在的博士」の数は、相当数に上るのではないだろうか。

もし、この記事を読まれている方の中で、何かをものすごく究めようと頑張っておられて、博士という響きに少しでも心が動かされる方は、将来博士論文を提出してみられてはいかがだろうか。

そして、文部科学省は、論文博士制廃止などという愚挙を今すぐ止めるべきだ。

もし、日本から論文博士が消えたら、日本の学問も終わり、という気すらしてくる。

by 小佐野弾


・「論文博士」についてもっと詳しく知りたい方はコチラ
・「文部科学省」公式サイトはコチラ
・「さかなクン」公式サイトはコチラ
・今号予告編「まさか!ジェンキンスさんがパワプロ登場バイーン」はコチラ
  
Posted by sangakubu at 21:40Comments(0)TrackBack(0)

2008年09月05日

「『睨むんです』を読んで」 by 小佐野弾

帯アリ特技:飛行機のアナウンスを真似すること偉大なる安西先輩の壮絶にして奇妙な芸術活動の記録の一端。

地球を睨み続ける男の視線の先にあるものとは?

この本のすごいところは、一部を除き、写真に埋め尽くされているにも関わらず、その行間に何かが詰まりまくっているところ。そして、読む毎に全く違って見えるところ。

そして、結局は「無意味」であるところに「意味」をしっかりと持たせているところ。

この人は、紛れもなく、天才的奇人です。

by 小佐野弾


・「新風舎『睨むんです』出版ロード!」完全版はコチラ
・「新風舎『睨むんです』営業ロード!」完全版はコチラ
・「〜大日本山岳部旗上げ10周年記念行軍〜 第5回激走の旅 リアルニイタカヤマノボレ」完全版はコチラ
  
Posted by sangakubu at 23:40Comments(0)TrackBack(0)