今日、母が着物を探すため、タンスを漁っていたら、とんでもないものが発見された。 それは、昭和28年春から昭和34年春にかけて、祖父から祖母へと届けられた膨大な数の手紙だった。
2001年に他界した祖父は、それはそれは波乱万丈な人生を歩んできた。
長兄である、「記憶にございません」で有名なあの方(僕の伯父だが…)が起こしたあのK社に弟として入社したものの、女遊びの激しさと、生活態度のひどさを咎められて、苛立ちを募らせていたのが昭和28年だった。祖父は、昭和3年生まれとしては異例なほど長身で(179cm)、スマートな体躯に甘いマスクで女性からはよくモテた。そして昭和28年の祖母への書簡には、「早くこの会社を飛び出して独り立ちしたい。一緒に、二人で頑張りましょう」とあった。
そして有言実行、会社を飛び出してしまい、兄からは勘当されてしまった。
そこからは、手探りでいろいろな会社を渡り歩いたが、その頃はまだ、祖母は茨城の実家に居て、祖母に対して金を無心する手紙が続く。
そして昭和29年、祖母が母を身ごもったことがわかると、超が付くほど真面目に働いた。そして母が生まれる数日前に、何とか入籍を果たす。しかし祖母の実家は関東でもかなり大きい寺院であり、曾祖父は大変厳しい人であったため、祖父の生活が安定するまでは、決して実家から祖母を出そうとは思わなかった。
だから、祖父が勘当を解かれて安定した生活を手に入れる昭和34年頃まで、祖父は茨城にいる祖母と幼い母のもとへ、手紙を出し続けたのである。
今日、祖父の手紙を発見して、それを読んで、母は「私はある種のショックを受けた」と言っていた。僕も同感だった。
だって生前の祖父は、どたらかと言えば植木等の「無責任男」に近い風体で、明るく、気さくで、でもテキトーで、とても筆まめには思えなかったし、文学など親しむような性格ではなかったから。照れ屋だったから、家族に対して直接的に愛情を伝えることもなかったし。もちろん、とてつもなく愛されていたのだけれど。
なのに、書面には、読んでいる方が恥ずかしくなるほどの、熱く、情熱的な祖父の想いが綴られていた。
祖父が他界して、6年がたって、今まで知らなかった祖父の一面を垣間見てしまったのだ。祖父が、まるで「俺だって、こんな時期があったんだぜ?」と今になって僕たちに教えてきたようで。なんという切なさだろう。何という感激だろう。言葉に言い尽くせない感情が、母と僕を覆ったのである。
祖母に対して、「早く二人で生活できるように頑張ることを誓う」と。母に対して、「あまり水を飲み過ぎて、おなかを壊さないように」と。
とても美しい文体と文字で、ただ只管家族に対する愛が綴られている。まぁ、金の無心に関する文も多かったけれど。
生前に一度だけ祖父が、「菊地寛はいいよなぁ。俺は、あいつの本だけは読んだ方がいいと思うな。ブルジョアがたくさん出てきてな、おもしれぇぞ」と言っていたことを思い出した。当時の僕は、「じいちゃんが本なんて似合わねぇ!!」って爆笑したけど、たしかに今日の手紙は、読書家の書く手紙だったのだ。
最近、祖母は加齢に応じて、老年期特有の症状が目立ってきた。「認知症」とまでは行かないかもしれないが、物忘れが激しく、感情がやや乏しくなり、心に輝きがなく、いつも家でぼーっとテレビを見ている。外には出たがらず、趣味もなく、友人もなく。そんな祖母を見ているのが、僕はここのところずっと辛かった。つい3年くらい前まで、あんなに奇麗で、元気で、ヨーロッパ旅行にも行っていた祖母が、どんどん衰えていく様を間近で見ているのが、とても辛かった。いくら人間の宿命とはいえども、老いとはなんと切ないものなのか、と。
しかし、今日、その手紙を祖母に見せたら、祖母は「青春時代」の顔を見せたのだ。自分でタンスにしまったことすら忘れてしまったラブレターが、次から次へと出てきて。50年以上、封印されていた祖父の祖母への愛情が、この2007年の秋に、祖母へと再び届いたのだ。著しい新鮮さを伴って。
祖父の浮気癖がひどくて、何度も包丁を持って追いかけまわした、と言っていた祖母。でも、祖父は、自分がもうこの世を去って6年も経つのに、こうして祖母に愛情を注ぎ続けるのだ。そしてその愛情を受けて、数年ぶりに光り輝く祖母の顔。
僕は、祖父の眠る仏壇に手を合わせながら、心からのお礼を言った。
照れ屋で、不器用な祖父らしいではないか! こうして、50年も経って、家族にラブレターを渡してくれるなんて! 自分がこの世を去って、6年以上も経ってから、愛の言葉を伝えてくれるなんて!
今日一日だけかもしれないけれど、祖母は確実に新婚の頃の祖母となり、母は少女の頃の母となったのだ。僕は、そんなとてつもなく感動的な光景を間近で見られたことに、一種の奇跡を感じ、ただただ心がむず痒かった。
そんな中で、先ほど午前2時21分に、箱根町で震度5強の地震が起こった。僕の頭に真っ先に過ったのは、今、富士屋ホテルに滞在している友人の安否と、祖父が愛した富士屋ホテルの損壊状況のこと。
僕は立場上、今電話することが難しいので、友人に頼んで、富士屋ホテルに電話をしてもらい、滞在中の友人とホテルの無事を確認した。
以前、富士屋ホテルでボヤが発生した時、祖父は「建物はどうでもいいから、宿泊客の安全をすぐ確認しろ!」と指示していた。だから僕も、滞在している友人のことが心配で心配でたまらなかった。
滞在している友人には、せっかくの富士屋ホテルでの一夜が、地震に見舞われてしまい、心の底から申し訳なく思う。
しかし、「館内に被害はありませんでした」との報告に、心の底から胸をなでおろし、これも実は、祖父の仕業だったのかな、なんて思ったのである。
※この原稿は2007年10月に執筆されたものです。
by 台湾大管区長官 小佐野弾
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